シャンシャンのカメラマン周孟棋、その31年のパンダ撮影の歩み

1992年、写真家の周孟棋は初めて成都パンダ繁育研究基地を訪れた。その日、パンダを見にきた観客の多くが外国人だったことを彼が鮮明に覚えている。「こんなにも多くの外国の友人が中国までにパンダを見に来ているのなら、なぜカメラで記録して、より多くの人に見てもらおうとしないのか」と彼は考えた。その後31年間、彼はパンダの撮影に専念し、約10万枚のパンダの写真を撮り、世界的に有名な「パンダ写真家」となった。

31年間、彼は険しい地域、雪の積もった所、深山など、パンダが出没する所に入り込んだ。彼はカメラで多くの貴重な瞬間を捉え、多くの人々が癒され、そして絶滅危惧動物の保護活動に参加するようになった。

運命的な縁

周孟棋とパンダの縁は、まるで運命的に定められたもののようだ。子供の頃、母親に連れられて成都で最初の百花潭動物園で初めてこの白黒の動物を見た。小学生の時、彼の最初の美術展の作品はパンダが竹を食べている絵だった。転職して写真家になってから、初めて全国写真展に選ばれた作品もパンダで、世界の写真コンクールで初めて金賞を獲得したのもパンダだった。これにより、彼はますますパンダを一生の撮影テーマとして確固たる信念を持つようになった。

彼は中国が外交、科学研究、賃貸飼育などを通じて海外に派遣したパンダとともに、多くの国々で「パンダとその故郷」と題した写真作品の巡回展を開催した。彼の写真作品が写真集としてまとめられ、中国、イギリス、イタリア、ドイツ、日本、フランスで様々な言語で出版されている。

忘れ難い瞬間

動物を撮るのは難しいが、野生動物を撮るのはもっと難しいと言われている。パンダをうまく撮るには、パンダの生活習性を理解する必要があると周孟棋が考えている。例えば、飼育下のパンダは朝、昼、晩の食事前後が最も活発的な時間帯であり、この時間になると撮影が最も簡単になる。一方、野生のパンダを撮るには忍耐が必要であり、運が良ければ1日で撮影できることもあるが、多い場合には5日から10日かかるが、撮影が成功しないこともたくさんある。

長年の撮影で、周孟棋はパンダの習性を深く理解した。「彼らは暑さを嫌うが、寒さに強い、冬眠もしません。毛が厚いため、氷雪や大雨の中にもいつもの通り餌をとる。パンダは木を登ることや崖や岩を登ることも長けている。さらに、パンダは水が好きで、近くできれいな水を飲むために、彼らの家には常に清流から離れないです」とパンダについて、周孟棋は詳しく語っている。

日々の観察の結果、周孟棋は多くのパンダ作品の撮影を完成させた。周孟棋のレンズの中で、パンダは動きながらも静けさがあり、美しさと純粋さが共存し、自然の霊性が漂っている。彼は頻繁に「擬人化」の手法を用いて撮影を行い、「太極推手」のような筆致を用いて、パンダの瞬間的な「人間らしい」表情と、その黒白の配色と丸みのある豊かな外観が内包する「太極」のイメージを深く融合させている。これについて、作品「パンダ太極」は永遠の瞬間と言えるだろう。

周孟棋は、パンダを上手に撮影する秘訣について、「まず、心からパンダを愛しなければなりません。次に、パンダの生活習性と特徴に注意を払い、食べることや寝ること以外にも、その独特な一面を観察することです。そのほかにも、寂しさに耐えて、冷静な気持ちで撮影して、見て回るような撮影では良い写真が撮れません」と慈愛に満ちた口調で語った。この二十五年間が一日のような専念と継続があったからこそ、周孟棋は『逆さまパンダ』や『カンフー・パンダ』、『兄弟』など多くの面白いシーンを捉えることができた。

1992年、オリンピックのスターパンダ「科比」が満月を迎えた際、周孟棋は科比と母親が仔牛を舐める感動的な瞬間を撮影するため、1時間以上も待っていた。その努力が報われて、彼は有名な『母子の情』の撮影に成功した。

自然を愛し、中国を表現する

長年の歩みの中、周孟棋は夾金山山頂の氷の襲撃、山道で転覆事故、人が車中で逆さまになるような危険な状況に遭遇し、各種極端な気候の変化、さらには高山での酸素欠乏、道路の土砂崩れ、地滑りや飛び石、車の故障などに直面したが、幸いにも彼はいつも無事に難を逃れ、私たちに素晴らしい作品とスリルのある話を聞かせてくれた。

絶滅危惧動物に関心を持つ中国初の映像学者の一人として、周孟棋は自分のやり方で絶滅危惧動物の保護活動に参加している。数十年にわたり、周孟棋は四川臥龍、雅安、王朗、陝西仏坪、周至などのパンダ自然保護区を転々とし、輝く「中国のシンボル」であるパンダを世界中に紹介した。世界がパンダ文化を通して中国を理解する手助けとなることが、周孟棋の生涯の追求となっている。

寄稿者:蘭の花です

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