01きのこの家のハニ人
昆明から元陽新街まで向かう車の中で、我々は外地から出稼ぎに出てきていたハニ族の青年張学明と知りあった。おしゃべりを重ねるなかで、彼のふるさとは私たちの目的地―菁口村であることが判明した。我々が村に入ったときはすでに夕方に近かったので、まず目に入ったのは尖った茅葺きの屋根の数々だった。遠くから見ればそれはまるで大きなきのこのように見えた。
ここに住む人々は屋根を三年に一度張り替え、いちばん良い茅で新しい屋根を覆う、張学明はそう説明してくれた。このような「きのこの家」は一般的に上中下の三層構造になっている。ハニ族はいちばん下の層で家畜を飼ったり農具を保管したりする。ハニ族特有の民家の特徴の一つは、台所と寝室が一箇所に配置されているところである。古くからのハニ人は、きのこの家のてんぺんから炊事の煙が立ち上る様子を家畜が強く育っていることの印であると考えている。また、ハニ族の家では囲炉裏はアーマ(ハニ語、ママの意味)の寝る場所の前に配置されている。そうすることで体が弱っているアーマのために暖をとることができるし、同時に煙が部屋の湿気を払い、害虫を殺すことができると彼らは考えているのだ。
いちばん上の層は倉庫になっていて、彼らはここに食料や穀物の種などを保管しておく。きのこ状の構造はとても独特で、とても優れた散熱機能を備えている。たとえ非常に厳しく冷えたときでも部屋の中は暖かいし、酷暑の夏でも家を涼しく保つのだ。
02 水牛への敬意
水牛はハニ族が棚田を耕し植え付けを行うときに手助けしてくれるパートナーだ。そのため、牛を敬うというハニ族の習俗は衰退することなく長いこと続いている。母牛が子牛を出産するとき、彼らは一家揃って山に登り、柔らかな草を刈って食べさせるし、豚の脂身と黒砂糖を溶いた水を飲ませることもある。もし天気が寒い場合、古着や布団の綿を使って母牛を包み込み、寒さをしのがせる。子牛が生まれて三日目の早朝には、家の主人は蒸しあがったもち米を牛舎の前に起き、その家の人数と水牛の母子の数に応じてお椀ほどの大きさのおにぎりを作る。それぞれの牛にある程度食べさせたあと、家族はそれぞれ自分たちの分を食べる。これは人と牛の地位が平等だということを意味しているのだ。
03ハニ族の鼓舞
鼓舞とは人を震撼させるハニ族の舞踏の一種である。鋩鼓舞とは、鋩鼓と呼ばれる道具を持った踊り手の指揮により、鋩(刃の切っ先)を持った2人が人集りの中央で向き合って行う踊りだ。ハニ族の民間舞踏のほとんどは彼らの日常的な労働生活に起源を持つ。鋩鼓舞の舞踏のポーズは人びとが狩りの途中に残した足跡をきれいに消しているようでもあるし、田んぼのあぜ道を踏んでいるようでもある。中央で踊り全体を指揮する踊り手の他に、複数の踊り手が左肩に抱えた鼓を右手で打ちながら、中央の踊り手を円となって囲んで踊る。踊りが最高潮に達したときには、逆立ちしたりつま先立ちしたりするなど、踊り手たちは多少のアドリブを加えることもある。ある程度の時間踊ると、舞鋩者は鋩を上に掲げ、それまで響いていた太鼓のリズムを崩す。こうして舞踏は一区切りつくのである。
04 奕車族:白い帽子に下駄を履いた人々
車で紅河県の町から出て、急な坂をひとつまたひとつ越え、谷にひとつまたひとつと入っていく。ここに住む古くからのハニ族の支系である奕車族は現在では世界に2万人あまりしか残っていない。彼らは紅河県大羊街郷に集まって住んでいる。着いてすぐ目に入る賑やかな通りには白いとんがり帽子を被ったたくさんの人々がいる。これはハニ族奕車支系の基本的な服装である。一部の伝統的な民族の祝祭日には、奕車族の男たちは黒い服とズボンを、女たちはみな半袖半ズボン(半ズボンの裾は太ももの付け根までしかない)を履くこともある。
05 とぎれとぎれに続く歳月の記憶
我々が今いるここはごく普通の田舎の住居だ。大門から入ると、とても大きな庭があり、庭の片隅には左右それぞれが直角に曲がった2階建ての木造の建物がある。ここに住む娟さんのお母さんが家の前でサヤインゲンをよっている。また、アーピン(ハニ語でおばあちゃんの意味)は今年七十いくつになる。車古村の徳望高いご老人だ。
娟さんが古い衣服や装飾をわざわざ探し出して持ってきてくれた。アーピンの口から私たちに昔の思い出を話してもらうためだ。「私たちが若い頃は、いつも『チュエラン』(ハニ語で上着の意味)や『チュエバ』(シャツ)、『チュエパ』(下着)を身につけなければいけなかったし、『チュエパ』の裾には9層のレースをつけなきゃいけなかったの。女の人が赤ちゃんをお腹に9ヶ月宿すことを象徴しているのよ」。アーピンは濃い青のチュエランを撫でながら、ゆっくりとそう語ってくれた。
「私のアーマは、冬でも夏でも田んぼで田植えするか山に入って薪や草をとっていたわ。そのときはいつも私たちの民族の短いズボンを履いていたの。だからアーマやほかの女たちの足はとても荒れてざらざらしていた。でも、あの時代の若い娘たちはそんな足こそ美しいと思っていたの」。娟さんはこう付け足す。「この青い布を巻いて作った三角の頭巾を奕車語では『ウーモ』と言って、『ウーモ』を女子の頭に乗せる儀式を『ウーモーモ』と言うの。こんな装飾はいまではほとんど誰も身につけてないわね」。
別れの日が近づくにつれ、娟さんは私たちを彼女の母方のおじさんのところにやって晩御飯を食べさせると言って譲らなくなった。彼女は奕車風情園というテーマパークを作る問題について我々の教えを請いたいというのである。「今、自分たちのルーツを訪ねて私たちの村を訪れる日本人が毎年たくさんいるの。記者やカメラマン、それに観光客がどんどん増えているのよ。私は昔、あなたたちの『深セン世界之窓』に行ったことがあるわ。私たちもああいう感じで奕車風情園を作ってもいいと思うの。建物を一箇所に集めて、伝説や民族を整理し直すの。そうすれば、ここの若者たちも遠くまで出稼ぎに出る必要はなくなるでしょ」
黄昏の家、みなの顔は夢とアルコールのおかげで輝いて見える。彼らの頭には夢が浮かんでいて、そして彼らはその夢のために努力するのだ。きっとこの土地の人たちの人生もより素晴らしいものになるに違いない。彼らが語る夢を聞く人たちもまた、みな「モーミー」と祝福の声をかけられた。彼女たちの人生もより色鮮やかで生き生きとしたものになるはずだ。
—「vivi」より
图Nicky