ハルビンは本当に趣のある都市だ。年間に平均30日降雪があることがあまりにも目立っており、「氷の城」としてよく知られている。実は、そのような特徴がなければ、ハルビンはおそらく「ハーフ都市」として世間から注目されるはずである。
毎年、ハルビンの生活に惹かれ、数え切れないほどの観光客が訪れる。「鍋包肉」や「馬迭爾(モデルン)アイスキャンディー」を試食したり、「老江橋」を渡ったり、午後の「聖ソフィア大聖堂」の広場でハトに餌やりをしたりすることはどんなに異国風情たっぷりなことだろうか。
△雪が降るハルビンはとてもモスクワのようだ。写真/図虫
ロマンチックな欧風建築の裏に秘められている歴史の重み
ハルビンの特徴を一言で紹介したい場合、やはり「ハーフ」という言葉が適切だと思う。その特徴を説明できる最も代表的な場所は中央大街だ。この通り全域に欧風建築が71棟あり、西洋建築史上最も影響のある四つの建築の流派をカバーしている。
ベテランの芸術家なら、中央大街を歩きながら、きっと建築の流派を見分けることができるだろう。15〜16世紀のルネサンス様式、17世紀初期のバロック様式、折衷主義そして19世紀末20世紀初期の新芸術運動建築などがある。
△写真/Flickr
中央大街の物語は19世紀の末から始まった。当時、ここはまだ松花江の畔にあるぬかるんだ窪地で、どこも荒れ果てて雑草が生えている場所だった。
しかし、中東鉄道の建設開始でここは転機を迎えた。建設用具材を運ぶ馬車が行き来したことで、そのドロドロ状態の中に一本の道がを踏み固められた。当時の中東鉄道局はこの土の道をハルビン在住の中国人に配分し、中国人が住む街道の意味する「中国大街」と名付けた。これが中央大街の雛形である。
1924年、ロシア人エンジニアのクモトラシャー氏が設計、監督し、中国大街のドロドロの床にツルツルした石畳が敷かれ、欧風の建築も建てられ始めた。中国大街は当時の地味だった様子からすこしオシャレになった。その後、ロシアの皮やイギリスの毛織物、フランスの香水、日本の布など次々と販売されるようになり、ここに住み付く外国人も多くなっていった。
△写真/wikipedia
それから、「中国大街」と名付けられたこの通りには、外国人が中国人より多くなり、1928年、正式に中央大街という名前を変更された。
百年前の中央大街にタイムスリップしたら、聳え立つ建物や行き来する外国人、舶来品を並べる店などを目の当たりにすることができる。この賑わって栄えている様子がほかの地域よりも何十年も早く現れ、中央大街はハルビンのビジネスがもっとも集中するエリアになった。なお、今日でも、依然としてハルビンでもっとも有名な場所とされている。
△中央大街沿いの建築物。春になると、また違う景色になる/図虫
道内区と中東鉄道を隔てる道外区は中国人の入居数が多いため、中国民族工商業者はここで誕生し、発展を遂げた。20世紀から、道外に住む中国人商人には裕福な人が徐々に増え、鉄道の向こう側に次々と建てられた欧風建築を目にし、それと類似する建物を建てるようになった。彼らが選んだのは見た目がより派手なバロック建築で、その上に中国伝統的な装飾物を加えた。例えば、「福」、「寿」、「禄」を象徴する如意やコウモリ、「寿」の模様などである。
△靖宇街と南頭道街の交差点にある純化医院は、「中華バロック」の代表作と称されている/図虫
ベテランの芸術家はこれらの建築物に足を踏み入れた瞬間に、中国の雰囲気に包まれることに気づくだろう。陸橋や天井、回廊などを見て、これは典型的な中国の四合院の構造だろうと思わざるを得ない。このような中国伝統文化と西洋バロック文化を融合させた建築物を、後の学者たちに「中華バロッ」と呼ばれるようになった。
中華バロック街には庶民の生活があり、多くのハルビンのお年寄りにとって、幼い頃の思い出がいっぱい詰まった場所でもある。ここで一箇所をじっと見つめるお年寄りがいても、声をかけないで。その人は子供の時代の記憶を蘇らせている可能性が大きいからだ。
△中華バロック内部の構造は典型的な中華風をしている/図虫
国際的な大都市は一日にして成らず
ハルビンの学校に通う友達はベテランの芸術家に、中央大街や中華バロック、聖ソフィア大聖堂などの建築物が誕生した前提となったのは中東鉄道の建設だと語った。
中東鉄道は人々から「老江橋」という別名で呼ばれることがよくある。1901年開通から2014使用停止までの間、この鉄道はハルビンの百年以上の歴史を見守ってきた。
△夕日に映る老江橋の影、観光客、市民が橋の上で夕日を眺める/図虫
1898年、ロシアが中東鉄道の建設権を得た後、中東鉄道局はウラジオストクからハルビンに移動し、それとともに、鉄道局のロシア人エンジニアやデザイナー、官員の大部分もハルビンに引っ越してきた。中東鉄道の建設はハルビンに大量な人口を持ち込んだだけでなく、発展のチャンスももたらしたと言える。ハルビンの商売業界の空白期間があったこともあったが、これを機に商人たちはここで大いに事業を発展させ、短時間のうちに、ビール工場、小麦粉工場、製粉工場、石鹸工場など現代的な企業が次々と作られていった。
△かつての中東鉄道/図虫
移民は潮水のように、海岸に押し寄せることがあれば、次第に海に下がっていく時期が来る。1950年代以降、中ソ両国の合意のもとに、中国政府は中国境内のソ連移民を大量に帰国させるように働きかけ、それでハルビン在住のソ連人も大量に中国を出るようになった。それ以降、ハルビンが持つ「ハーフ」という色合いも薄くなっていった。しかし、人が去っても、そこに建物がそのまま残され、人的・文化的歴史は取り消されることができないだろう。
今日のハルビンでも、当時の中西文化の融合した面影を垣間見ることができる。食べ物は、中国全土で大人気な鍋包肉や馬迭爾アイスキャンディー、ロシアの紅腸(ホンチャン)と大列巴(ダーリエバ)がある。言葉の面でも、よくハルビン人の口から「笆籬子(監獄)」や「喂的羅(バケツ)」、「布拉吉(ワンピース)」、「列巴(パン)」など外来語が聞こえる。
百年の歴史を背負うハルビンは都市の変化や急速に発展する様子、行き来する人々を見守りながら、上品で優雅な姿のままで、物静かに佇んでいる。
△馬迭爾アイスキャンディー屋は観光客が必ず訪れる観光スポットになり、季節を問わず、いつも
—「九行」より