島の隔絶と孤独、そして寂寥は、島に様々な文学的イメージを与え、人々にはインスピレーションをもたらしてきた。小島はその小ささゆえ、活動範囲が自然と限定される。一日のうちに同じ人を何度も目にすることに私たちは気づく。
いくつかの島は陸と車で結ばれているので、より直接的かつ効率のよい方法で行き来することができる。いくつかの島はフェリーという原始的な方法で陸とつながっていて、その生活は天候に左右されている。
今こうして語っている多くの島々では、だんだんと「島」という概念が無くなりつつある。海に橋が架かったことで、車であっちからこっちに来てはまた向こうに行ってというふうに、便利に行き来できるからだ。仮に海がなければ、おそらく島の上にいることをまったく意識できないだろう。
福建平潭和平村@来自遠方角落的阿瑶
01 普陀山:修行とは、いちばん身近な生活のこと
私が生活している島は普陀山という。朱家尖から普陀山まではフェリーで15分しかかからない。このフェリーは世俗から仏門へと渡る一手段である。
当時、私は新婚で、夫が仕事で普陀山に赴任していた。そして私たちにとっては一緒にいることこそが大切なことだった。ちょうど彼の赴任先を私が好きだったということもある。以前、ここに何度か旅行で訪れてどっぷりと浸かっていた私は、この土地が有するギャップある一面性を見ていた。つまりここは、山を背に海に面していて、浮世俗人が仏門の明かり、僧や尼と共存していて、鮮やかな光と静寂がコントラストになっているのだ。
数十年の都市生活を経た私は、大多数の文芸青年たちと同じように、朝起きたら美味しいコーヒーを飲み、ご飯を食べるときにはカロリー計算をしていた。ところが島に来たあとすぐ、コーヒーや牛乳、日本料理、ブランチなど、そういった色とりどりな要素は島では必要ではないのだと気づいた。島に徐々に慣れた私は数日もしないうちに自分の生活が気軽なものになっていると気づいた。友達と一緒にお茶を飲み、ちょっとしたおかずを食べれば、それだけでとても幸せなのだ。
普陀山
1.退屈な島の暮らしだが、退屈さこそが修行なのだ
活動範囲に限りがあるので、島での生活はときに退屈なものになる。私は不定期に友達のために計画を立てたり原稿を書いたりしてお金を稼いでいたが、しかし何もやることがなくなると、またあれこれと気をもんでいた。
私はよく海辺に行った。海、それは島に来た人々にとって効き目のある癒しの方法である。私はよく千歩沙で夫の仕事が終わるのを待ちながら、手のおもむくままにこんなことを書いたりした。
「私がいちばん望んでいるのは、じつは波にさらわれて、そのまま塩っ辛い海の上をぷかぷか漂うことだ。だけど現実は長いこと私を浅瀬にとどめている。狭い巣穴のカニや美しく立派なハマグリたちみたいに、私はしゃがみこんで、じっとしてなければいけない」
あるとき、そんな私を見たお寺のお坊さんが私を彼の僧房へお茶に誘ってくれた。
「ご存知ですか?いわゆる修行とは、寝る、着替える、食べる、というもっとも日常的な生活なのです。なぜあなたにできないのでしょうか」
お坊さんは私にそう聞いた。「お腹が空いたから食べる。眠くなったから寝る。非常に簡単に聞こえますが、普通の人に出来ることだと思いますか?」。お坊さんはそのような日常の修行の難しさを理解していたのだ。
何かしたいという心を向上心や使命感だと思ってはいけない。自分の現状に安らかに満足することこそが大切な力なのだ。
2.普陀山の民宿はひと味違う
生活であれレジャーであれ、現地の人と結びつくことは心を豊かにしてくれる。
私はよく来舎という民宿にお茶を飲みに行く。来舎は花園のようだ。手入れしているのはマスター夫妻だ。彼らは今日テントを設置すれば、明日はまたティーテーブルを増やしたりしているので、ぜんぶの手入れが終わる日はきっと来ないんじゃないかという気がする。マスター老潘(旦那さんの方)は主に店の外のことを担当している。予定作り、送迎、ガーデニング、ちょっとした工事なんかは彼の仕事だ。たまに字を書くが、それもすぐにお客さんが買っていってしまう。マスター芳芳(奥さん)はお店の中のことが担当だ。お客さんに対応したり、たまにパンを焼く。琴、将棋、書、画など、同じ趣味のお客さんがやってくると、古琴、ヨガ、茶道など、臨機応変なトークでもてなしてくれる。
いったい来舎で何杯お茶を飲んだか、私は覚えていない。しかしご飯を食べたことはない。ここの夫婦の考えは徹底していて、油の煙や匂い、それにコックを雇った場合に生じる喧騒が、現在の静かな安らかさの邪魔となり、普陀山に戻って日々を過ごそうと思った初志に反すると思っているのだ。ふたりとも従業員を雇うことは考えていない。店が満席になったり、とても忙しくてたまらないという状況でない限り、清掃サービスに掃除の手伝いを頼んだりすることもない。
来舎の花園茶寮
02 退屈がっている人材を癒してくれる小島、花鳥島
第二の登場人物は小藍。花鳥島での生活は5年近くになる。彼女とこの小島はぴったりと合っている。朝はいつも5時前後に目が覚めたあと、埠頭の辺りの岩礁の上に行って風にあたるか本を読んで過ごす。どこまで歩いても、やはり愛と出会うことができるのだ。
2018年、大学に通うため上海にやってきた彼女は、地図をパラパラとめくっているとき、花鳥島を目にした。その島は上海から遠くなく、そしてとてもいい名だった。
学校からバスに1時間乗ると埠頭についた。そこからまた1時間船に乗って嵊泗に行き、さらにフェリーで45分揺られて花鳥島に着いた。その長く曲折して見える道のりは、小藍にとって心楽しいものだった。彼女は言う。「島は大陸から遠く離れている。外で何が起こっているかなんてわからないぐらい遠いの。島はまたとても小さい。どこに行くべきか考える必要がないぐらいね。あたりはすべて海だけど、方向がわからなくなったりなんてしないわ」。
大学1年生のある秋の日、彼女は「時間を無駄に過ごして何も学べていない」状態から今すぐに抜け出したいと思い、花鳥島にやってきた。そして「別人家」という名の民宿で住み込みの歌手になり、民宿に泊まるお客さんたちの旅行写真に花を添えた。
自力更生の経済基盤があってこそ、勢いにまかせて花鳥島の島民として身を起こすことができるのだ。
民宿「別人家」
1.小島の上の若者
小藍は言う。「花鳥島は私の視野を広げてくれたの。外の世界は広いけど、自分とは関係ないわ。学校で勉強しても結局は先生やクラスメイトとしか交流できないし、オフィスビルで仕事をすれば触れ合うことになるのはどうせ同僚ばかりでしょう」。
花鳥島は小さいが、しかし様々な人々を受け入れている。とりわけ若者たちが、後に開かれるようになった花鳥芸術祭のおかげで、島にやってきた(あるいは戻ってきた)。ある者はその名に惹かれてやってきたし、またある者は小島にインスピレーションを刺激され、民宿やレストラン、アイスクリーム屋を開いたり、魚拓館、写真館、アトリエなどを立てたりした。
彼らは、夢蝶の民宿「方外」に行ってコーヒを一杯飲んだり、skyのクッキングカーでヨーグルトアイスを買ったり、杭州から定住してきた師匠や奥さんの家で家庭料理を食べたり、蘇葉の写真館へ足を運んで写真を眺め自分の写真を撮ってもらったり……ほかにも、人が多いときは一緒に海辺でバーベキューしたり、客がいない冬季にはみんなで集まってご飯を食べたりしている。
島の若者たち
2.小島の愛
2020年、小藍に春がやってきた。
この年、小斉という青年がボランティアを務めるために花鳥島にやってきた。彼は犬の散歩をしていた小藍と真正面から出会った。そしてまさにふたりがすれ違って通り過ぎようというとき、彼らは互いに振り返り、そして目があったのだ。
「お互い繋がってるんだって、ふたりとも信じました。それは突然やってきた感情だったんです」。それはシンボルスカが言うような一目惚れだった。花鳥島ではこんなロマンスがよく生まれている。アイスクリームの移動販売をやっているskyだって花鳥島で恋愛し、結婚した。
花鳥島はとても小さい。行ったり来たりしていると常に出会いがあるここは、人々の愛への渇望を放出しているのだ。それに加え、ここには海、岩礁、灯台がある。だから小島の愛は常にロマンティックだ。恋人同士となった小藍と小斉は、毎日埠頭に行って星を眺め、佛手石礁に座って海を眺めた。小藍の恋は、しかしのちに二人の間に生じた距離のために一時中断することになる。小斉は北京に戻り学校に通うことにしたのだ。
3.小島は古いことをやるのに向いている
小藍は最近、コーヒー館で忙しくしている。stayblueという名のコーヒー館は島のメインストリートにあり、ドアの傍には金柑の木が3本ある。建物は一階が珈琲館で、二階にはフィルム印刷のスタジオが入っている。
stayblueは長く滞在できる場所だ。ここに来たお客さんにはコーヒーを飲みながら絵を描いたり、本を読んだり、手紙を書いたり、そんな時間がかかることをしてほしい、そう小藍は思っている。
小藍は語る。「文字には力がある。私は昔ながらの島々みたいな古いものを探し出してみたい。書道とか写真を現像して印刷する過程は、私にとって一種の楽しみなの。受け取った人もきっと嬉しくなるはずよ」。海を隔てて、人と人はつかず離れずの距離にあるのだ。
将来どうするかについて小藍は、自分には確かに職に関する特別な青写真はないけれど、自分が何をしたいか、何ができるか、何を好きかは理解できているし、そしてそれで十分だと思っている。
03 平潭島 古建築のウイスキーとネルダ
三番目の女の子は小蘭、彼女が住む島は平潭島という。平潭島は小蘭のふるさとだ。ここは中国五大島嶼で、福建省に位置している。小蘭が幼い頃、平潭島は他の大多数の島と同じように、島の出入りをフェリーに頼っていた。だが2010年、橋が架かって車が通れるようになり、平潭島は省都福州と直接結ばれた。島民は開放的で広い心を持ち、出かけるときにはもうフェリーや天候の制約を受けることはなくなった。さらにしばらくして福平高速鉄道が開通し、「最も美しい環島路」と賞賛されるようになった。
もしふるさとにUターンするついでに島の良さや美しさを外に伝えることができたら、それはなんと心癒されることだろうか。そこで小蘭は2020年に友達と一緒に、環島道の君山を背負い大海原を望む場所に古い建物を一棟借り、民宿「越寂嵐厝」を開くことにした。
天窓つきの海島民宿「越寂嵐厝」
1. 島々は人々が抱く孤独のイメージを伝えている
「太陽が顔を見せるとき、海面にまるで人魚の尾びれのように蛍光に輝く波が現れるの。それを見た人は一年中幸運に恵まれるそうよ。蛍光の波の正体は海のプランクトンで、よくピンク色になるんだけど、それを見た女の子たちはみんなきゃーきゃー言うわ。春には夜光藻が『ブルーアイ』となって、浜辺中が光るの」。小蘭が語る平潭島の美しさは、そのすべてがふるさとへの盲目的な崇拝からくるわけではないようだ。
平潭島の蛍光の波
島と生まれ持っての寂寥と孤独、そのすべては秋と冬に姿を現す。群生するアシやヨシ、卵のような丸石が転がる浜辺、反り立つ崖などの景色は、見る者の心に世界の果てのような印象を刻む。浜辺の石の色はこの時期の海の色と同じく灰色がかっていて、癒される。冬の強い風が吹けば、「風車の野」に律動感が生まれる。
島の孤独感に対して、訪れる人々の理解はそれぞれ違う。
たくさんの人は文章を書いて、自分の日常から離脱し、また別の日常へと入っていく。
ある人は皿や器を持ってきて、建物と併せて写真を撮り、その天然の物悲しさに惚れ込む。
ある人はバイオリンと太鼓を持ってきて、波が岩礁を打つ音やむせび泣く強風に合わせて交響曲を作曲する。
ある人は光と影、島の上の広々とした空、光線の変化に合わせて建物が見せる違った姿を専門的に撮影する。
寒く冷えこむと、島を訪れた者たちはどこへも行かず、部屋の中で過ごしながら管理人さんからセーターの編み方を習う。
この島とここにある古い建物は人々に真実の風景を見せてくれる。昔だったら、アイスランドやアイルランドのドキュメンタリーのなかでしか、このような景色を見ることはできなかっただろう。
花束を抱いて海を見ているこの宿泊客は花屋の主人だ
2. ますます多くの民宿が平潭島に進出している
北港村には200あまりの民宿があり、島民たち自らの手によって簡単に修理されたあと経営されている。民宿というよりは島の農家民泊と言ったほうがいいかもしれない。これらの民宿は「越寂嵐厝」とは違い、外見上は変わらず古い建築のままである。伝統的な手法のみで外壁を塗り替え、積み木のように積み上げた石で、島で一年中吹く強風をしのいでる。
若者たちより一世代上の人々は、海辺の民宿は青白模様の「地中海スタイル」にしてこそ商売になると思っている。一方、小蘭は島の民宿の精神は孤独と静寂にあり、だからこそ後の人々が「わび・さび」というキーワードを持ち出したのだと思っている。この両者の違いと、その違いによってもたらされた客層によって、当地の人々の美学への理解はある程度刷新され、平潭島の民宿は大幅に増加した。
内部も「わび・さび」風である
しかし島で経営をするということは、自然がもたらす客観的な難しさを抱えている。つまり、高い建造費や、天気の影響を大きく受けること、そしてシーズンとオフシーズンのむらがはっきりとでてしまい、部屋代が全体的に高くなってしまうということである。これは不思議なことではない。ギリシャのエーゲ海はとっくにそうなっている。
高速鉄道は開通しているものの、しかし小蘭は平潭島に来るならまず飛行機で福州長楽空港に行き、そこからレンタカーで向かったほうがいいと考えている。というのも車で島をぐるりと回ることはとてもロマンに満ちたことだし、島を車で巡るということは普陀山に住んでいる人には体験できないことだからだ。
—「蔣俯」より