私がひと月滞在した、多彩な原始村

黔(貴州)の南東、重なる連山の間には数多くの少数民族が生活している。彼らの生活に興味を持った私は自分で車を走らせ、彼らの生活を一か月体験し、高山の奥深くに散らばる民俗文化と伝統手工芸を記録した。

基加村、深山にある丹寨蝋纈染め

ミャオ族の蝋纈染め技芸の歴史は長い、丹寨式の蝋纈染めはその典型的な代表である。丹寨蝋纈染めの拠点である基加村は伝統的な白ミャオの村で、観光業が発達しているわけではない。しかし、牛牛という大学生が自分の家を民宿としてネットに掲載したことにより、それに引きつけられた観光客たちがやってくるようになった。外国の観光客も多く、彼らは貴州の奥深い山に潜む秘密の部落を気に入って尋ねてきたのだ。

基加村は群山で隔てられているため、伝統的な風俗が保全されている。お腹をぺこぺこに空かせた我々を迎えたのは、正真正銘のミャオ族のグルメだった。ミャオ族の人々は酸っぱいものを好んで、晩食はよく酸湯(サンタン)を食べる。

牛牛のお母さんは地元基加村の画娘(ホワニャン)と呼ばれるプロの芸術工芸人で、手が空いたときは家で蝋纈染めをしている。我々は伝統的な蝋染め工芸制作を観察した。まず彼女は下書きなしに直接蝋刀で作業を開始した。なんの補助も使わず、ただ経験だけを頼りに布の上にきれいな直線とカーブを描いていく。

牛牛の家では蝋染めに関するたくさんの知識も知った。一般的に、中サイズの絵を一枚描くのには数週間かけて蝋で模様を描く。それが終わったら、次のステップは染色だ。調合した天然藍のペーストを染色用の甕に入れ、比例に応じて水と米酒を加え、染料を作る。そして、蝋で模様を描いた布を染料に浸して染色する。しっかりと染まるのに2、3日かかる。その間、画娘たちはひっきりなしに布を取り出しては染色甕の上に組まれた木に布をかけて酸化させ、そしてまた甕に入れるのを繰り返さないといけない。染料にどれだけ浸したか、そして何度酸化させたかによって生地色の濃淡が決まる。生地を深い藍色にするためには、この工程を数十回繰り返さなければならない。


ろう染めの最後の工程は蝋を落とす脱蝋だ。脱蝋後は布を欄干で干す。乾いたら、青地に白い模様が入った蝋染め生地の完成だ。

牛牛は鮮やかさで知られる滝や溜まりにも案内してくれた。道すがら、我々は歩きながら現地の人々の教えのもと、奇々怪々な野生の果物をいろいろ試してみた。たとえば地雷果(オシロイバナ)は食べたら舌が紫になる甘い果実だ。こういうものは現地の人と一緒でなければ口にする勇気がでない。我々は歩きながら、この奥深い山で暮らし、自然と山水の間で自由に成長したミャオ族の娘たちの幼年時代の日常も知ることができた。

錦鶏舞の発祥地、麻鳥村

麻鳥村に到着したとき、我々はまるでこの世のものではない桃源郷に足を踏み入れたかのような気分になってしまった。麻鳥村は郡山の頂にある。ここではほとんどの家がマウンテンビュー、視界良好だ。こんな奥深い山の村に100戸もの人家があるなんて想像しにくい。我々が村に着いたときはちょうど稲刈りと漁獲の時期で、すでに新米祭りのための準備を始めている村民も少なくなかった。

村長は我々を連れて麻鳥村から山の棚田に沿ってずっと下って行った。途中、歩きながらイナゴを捕まえた。あとで田んぼに放している魚を捕まえるための寄せ餌にするのだ。魚を捕まえるには二つの方法がある。ひとつは釣りで、もうひとつは寄せ餌のイナゴで引きつけた魚を籠で素早く掬う方法だ。経験豊富な村長のお手本を見たあと、私たちも期待を胸に田んぼに入った。実際にやってみると予想外に難度が高い。田んぼの水はとても冷たく、水に入ってしばらくするとすぐに両足が耐えられないほど冷たくなり、あきらめてしまった。しかし釣り竿でたくさん釣りあげた村長のおかげで、我々は山の美味を味わうことができた。

麻鳥村は錦鶏舞の発祥地でもある。錦鶏舞は2006年、国の第1次無形文化遺産保護リストに登録された。それぞれの村には重要な祭日があり、その日は村の少女婦女がスズメのような衣装と非常に短いスカートを身にまとい、蘆笙(ルーション)という笙に合わせて踊る。踊りのあいだ、蘆笙を吹く男たちは前方で踊りを統率し、女たちはその後ろに一の字に蛇のように並んで、逆時計回りにぐるりと回りながら飛び跳ねる。このとき、女たちが頭に被っている銀飾の金鶏は、まるで飛び立たちたくてうずうずしているかのようだ。銀の被り物が動くたびに揺れ、脚部につけた紐飾りは緩急自在に揺らぎ、プリーツのついたスカートについた純白の羽毛がふわりと翻る。さながら軽やかに羽ばたく鶏のように、彼女たちはゆったりと踊る。

流芳村、古道の畔の水上穀物庫

黔の東南部、黎平県の高く険しい山々のなかに、そこの風景と同じように美しい名を持つ村がある。その名は流芳村。ここに住むのは183世帯、そのすべてがトン族だ。彼らが住んでいるのは全木製の吊脚楼という杉の家で、屋根には青瓦が敷かれている。

流芳村に来た初日の晩御飯はトン族の婚宴にお邪魔することになったので、我々は急いでご祝儀を包んで宴へと赴いた。トン族の婚礼の儀は早朝か午前中に行われる。新郎側のたくさんの親類や友人たちは生まれて間もない子ブタと穀物を担ぎながらやってきた。新婦側は村の入り口に攔門酒(ランメンジウ)を設ける。新郎側は進寨歌(ジンジャイグー)と呼ばれる歌の応酬を数回繰り返し、それに勝って初めて村に入ることができるのだ。

ホスト側の家に着いたときにはすでに親類や友人たちで満席だった。50あまりの酒席で同時に開宴し、尋常ではない賑わいを見せている。食事を終えて歩いて帰る途中、我々は満天の星と天の川に出会った。同行のトン族のおばさんがいちばん明るい星を指しながら、思わず歌い出した。彼らの生活の歌声に我々は深く引きつけられた。

流芳村で私がいちばん気に入ったのは鼓楼と青石を敷いた古道だ。600年あまりの歴史を持つ鼓楼は村の中央に今でもそびえ立っている。鼓楼から村を抜けると古道にぶつかる。古道に沿ってだんだんと上へと昇っていくと流芳村を上から一望できる。

トン族のほかの村と流芳村との違いは、ここには水上穀物庫が完全な状態で残されていることだ。これらの穀物庫は300年あまりの歴史を持ち、ほとんどすべての家が所有している。穀物庫の下は水で、魚やアヒルを飼育すると同時に、風の通りをよくしたり、防火の働きもある。とてもスマートだ。

ここでは村ごとに習俗と歴史が違い、そのがすべて同じというわけではない。ここで私たちが唯一同じだと感じるのは、彼らの純朴さと善良さ、そして親切さだ。言わば、彼らこそが山奥深くのいちばん貴重な財産なのだ。

寄稿者:わたなべ

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