厦門での休暇もあと二日というとき、予約していた民宿が営業を停止したため、私たちはいっそスケージュールを変更し、あの有名な福建土楼を見に行くことにした。高速道路を降り、険しい山道に沿って人がいないエリアに入ると、周囲数十キロメートルには住宅もなければ耕地もなく、ただ果てしない原始林が広がるばかり。まさに「空山人を見ず、ただ鳥声の響くを聞くのみ」だった。
南方の温暖な気候に恵まれた森には植物が異常に生い茂っていて、至るところに棘、雑草、瘴気が溢れている。なにより恐ろしいのは姿を見せずに潜んでいる毒ヘビや猛獣だ。七、八百年前に初めてここを訪れた人々が一体どれほどの苦労を味わったか、本当に想像し難い。きっと道が無ければ鉈を振って道を拓き、地面が平らでないならば両足でならしながら進み続けたのだろう。西晋の時代からすでに千年以上の漂流の歴史を持つ彼らは、再び異客の身として異郷をさすらったのだ。彼らが自らを「客家人」と称する所以である。
700年あまり昔のこと、贛南(現在の江西省南部)や閩西(福建省の最西部)に生活してい漢族の一群が、モンゴル人の攻撃の手から逃れるため、それぞれ一族総出で南へと移動を開始した。彼らは誰も足を踏み入れようとしない深い山や原始林に入り込み、辺りに立ち込める瘴気や有毒ガスを潜り抜け、猛獣、蛇、虫たちの巣穴を突破して、人里離れた荒涼とした土地に至り、ここで世間から身を隠すことにした。
落ち着いて生活するためには、まず家を立てなければならない。あたりのいたるところに危険が潜む場所では、家族で集まって住んだほうが安全だ。そこで、彼らは家族全員を収容できる大きな住宅を作ることにした。とはいうものの、山間の限られた平地には利用可能な資源はほとんどない。せいぜい泥と木ぐらいだ。泥はそのままでは建材には向かない。彼らは泥を糯米、黒砂糖、卵白と混ぜ合わせ、何度も何度も棒で叩いて、堅固で耐久性のある土壁を造り出すことに成功した。こうして、防御と生活という二大機能を備え、見張り台となる望楼と中国の伝統的な建築方式である四合院とを融合させた建築――土楼が誕生したのである。
それから数十年後、モンゴル人は駆逐された。しかし、平穏無事な日々を送りたいという土楼の人々の願いは未だに実現してはいなかった。平和な時代を迎えたことで人々は子孫を増やし、人口が急速に増加、それに伴いただでさえ少ない耕地がますます不足するようになったのだ。こうして客家人と土着の人々との間で、限りある生存資源を奪い合って、数百年に渡る「土客の争い」が始まった。さて、土楼に見られるような防衛機能を備えた建築は双方にとって必要なものだった。こうしてこの独特な建築文化は広く代々受け継がれることになった。
その晩、私たちはある方形の土楼に泊まった。玄関にはこの建物が保護されるべき文化財であることを示すプレートがかかっている。この土楼のオーナーは、彼の年老いた親や小さな子どもたちと一緒に実際にここで生活を送っているので、土楼は随所に生活感を感じさせる。
土楼の内部はとてもきれいだった。ちょうど夕暮れどきで、飾り提灯に明かりが灯り、その赤が木造建築に映える。爛々と輝く灯りには大家族が醸し出す迫力が感じられる。外壁は土壁だが、その内部には純木が埋め込まれていて、ほぞ穴とほぞが設けられている。木の梯、門の鎖、かんぬきなど、どれも歴史を感じさせるものだ。土楼の内部の各所に目を移すと、緻密な技術に裏打ちされた絢爛豪華な装飾が施されている。
土楼は防音効果が非常に優れている。部屋の片側は外壁に面していて、そこに小さな窓が設けられているのだが、この小窓を閉めると外部の音はほとんど聞こえない。一方、土楼内部で生じる音に関して言えば、逆に非常に良く響く。それは、土楼の筒状の構造と外壁の厚さによって、土楼内部では自然と立体音響効果が生じるからだ。とくに庭では、たとえそれがどんなに小さい音でも部屋の中まで伝わってくる。このユニークな宿泊体験のおかげで、私は現在と古代との距離をたった壁一枚に感じ、まるで過去へタイムスリップしてしまったかのような錯覚を味わった。
千年の歴史がゆっくりと流れる間に、客家人と呼ばれる漢民族系の人々は中原から安徽、江西、福建、広東まで至った。さらにそこから四川へ北上した者もいれば、東南アジアまで南下した者もいる。彼らはこうして世界各地へと広がっていったのだ。山の外では垣根つきの茅屋はとうに高層ビルへと姿を変えてしまった。しかし、ここ山の世界にあっては、昔ながらの土楼が変わることなくひっそりと山間にその姿を隠しているのである。
—「浣熊」より