北京故宮博物館で展示されている世界各国の文明遺産

何世紀か前の外国人にとって、古い歴史を持つ東洋の帝国、中国に立ち入ることや、ましてや宮廷で皇帝に謁見するなんてことは、相当容易ではないことだった。イタリアの宣教師マテオ・リッチは中国に来るなり、皇帝との謁見を最大の目標に掲げた。そして中国生活も20年になろうかというころ、ようやく機会を得た彼は紫禁城に参内し、皇帝に自鳴鐘を献上したのである。

統計によると、明清の時代に中国を訪れた宣教師の数は千近くに上る。彼らのなかには宮廷で天文学、医学・薬学、翻訳、絵画などの仕事に奉職したものも少なくなかった。故宮は中国の文化財の拠点であるだけではない。たとえばインドやネパールの古仏像、明清時代の西洋の科学機器や時計、外国の文化財も豊富に蔵しており、世界文化財の博物館であると言っても言い過ぎではないのである。

故宮鐘表館は現在、清の時代の西洋の時計を大量に保存している。また、さきほどのマテオ・リッチは世界地図も携えて紫禁城に参内した。皇帝はこれら科学技術に対する西洋の姿勢を好んだものの、しかしそれよりも一種の鑑賞して楽しむものとして捉え、その興味が科学の水準まで高まることはなかった。

ドイツ人であるヨハン・アダム・シャール・フォン・ベルは北京に着いたあと、日食と月食の予測に何度も成功し、またクレーン機の一種を発明して北京城外の5つの大鋳鐘を鐘楼の上に釣り上げ、その名は一時期人々の高い注目を引いた。アダム・シャールは順治帝と非常に密接な関係にあり、よく深夜まで語り明かし、皇帝と胸襟を開いて付き合っていた。皇太后孝庄はかつて彼の屋敷へ赴き、皇后の病を治して皇室の大婚を円滑に進行させるため、薬を求めたことがある。これにより西洋医学は宮中に広く伝わることとなった。

康熙帝は科学の働きに対して非凡な情熱とあくなき求知心を見せた。彼はフェルビースト、フランシス・ジョルビヨン、ジョアシャン・ブーベなど多くの外国の宣教師を重用し、彼らから算術、幾何学、天文学、地理学などの科学知識を学んだ。しかし、康熙帝は科学を制度や社会の側面に押し広げることはなかった。あくまで個人の学びに留まっていたのである。この点は史学者たちから歴史の残念なポイントとして評価されている。

西洋の画家たちも同じように宣教という遠大な理想を持って中国にやってきた。ミラノ人であるカスティリオーネは並外れた絵画の才能を有していたことから、清の宮廷主席絵師になった。彼は康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代に渡って奉職し、特に乾隆帝は彼に対してことさら礼を厚くして待遇した。フランスの画家ジャン=ドニ・アティレは多少の感動とともに「中国の皇帝に大切にされた」という言葉を残している。宮中の御花園と庭園に王公や大臣たちはほとんど足を踏み入れる機会がなかったが、西洋画家たちや時計職人たちは幸運にも職業上の必要性から常駐していた。

1793年夏、イギリス人マカートニー率いる一行が北京に到着した。歴史に残る今回の来訪は西洋と東洋の関係のターニングポイントのひとつだと認められている。個人として活動していたそれ以前の宣教師たちと違い、今回の一行はイギリスが正式に派遣した使節団であった。彼らは乾隆帝の誕生祝いを名目に中国にやってきたが、実際の目的は通商と外交の申請をするためだった。

中国で生活する西洋人がますます多くなるにつれて、西洋の物品も宮中にますます普及し、汽船、自動車などの西洋式の交通手段が現れた。北京で最初となる鉄道は西太后の寝殿である儀鸞殿から北海静心斋に至る西苑鉄道であり、西太后の休息や楽しみのために使われた。最後の皇帝である溥儀は退位後、変わることなく紫禁城で長年暮らし、宮中の敷地で自動車に乗ったり電話を取りつけたり映画を放映したりした。また、麗景軒を取り壊して新しい西洋料理館を建設した。故宮は1914年に古物陳列所として対外的に開放され、旧咸安宮の跡地には西洋式の洋館宝蘊楼がそびえ立ち、文化財を保存する大型の倉庫となった。古物陳列所は近代中国における最初の国立博物館であり、のちに故宮博物院に編入されることとなる。

1925年10月10日、故宮博物院が正式に成立した。現在、成立から95年が経つが、その間数世代の人々が故宮の事業に身を投じ、故宮を人生の伴としてきた。故宮博物の計画建設工程初期は、多くの宮殿が長いあいだ手入れされていなかったため、その修繕と文化財の保管にあたって各方面から金銭的協力を得ることとなった。

力を発揮した海外の人々も少なくない。故宮博物院の記録によると、イギリスの富商ディヴィッドは個人で6264.40元を寄付している。これは景陽宮の修繕に使われ、景陽宮は磁器の展示施設となった。展示品の選定や展覧の設計、そして説明書きの執筆はすべてディヴィッドのアドバイスと指導を受けた。彼とそのほか数名の海外の文化財専門家のアドバイスのもと、故宮博物院は初の海外展覧会――1935年ロンドン国際中国芸術展を開催した。これは故宮に所蔵されている物品が国外に出て全世界に向けて集中展示される初めての機会となった。その後、今に至るまで、故宮博物院は耐えることなく海外の学者や文化財愛好者を惹きつけ続けている。

実際、故宮に所蔵されている品々の数の多さは数をあらためるたびに数年もの時間がかかるほどである。現在所蔵されているのは約180万点であり、これは全国の文化財の総量の半数に迫る勢いである。日本のジャーナリスト野島剛は故宮の愛好者であり、故宮に関する専門書を2冊出版している。彼はよく「なぜ日本人が故宮について書かなきゃいけないんですか」と聞かれるという。彼はこう答える。「故宮は中国を理解するのに良い教材だからです。ただ故宮に所蔵されている文化物というだけで、中国の歴史を十分に反映しているんです。文化は中国のすべての反映です。だから、中国人も文化に自分たちの歴史や命運を反映するんです。私たち日本人にとって永遠の隣国である中国を理解するためにも、中国の文化遺産の真髄を代表する故宮の文化財はまさに絶好の素材であり、中国を理解するための近道だと私は思っています」。


—「李慕琰」より

ABOUT US