夢で見た風景、平山郁夫の敦煌、シルクロードへの思い

画家、仏教徒、東京芸術大学学長、日中友好使者、ユネスコ親善大使.....平山郁夫の話になると、沢山の肩書きに人々が尊敬するとともに好奇心を抱くだろう。中国敦煌文化者にとって、敦煌と平山郁夫の物語は広大で、真摯と純粋な感情が込められている。この昔大声で家財を使い果たしても莫高窟を守っていく」叫んだことのある老人は、日中両国文化交流の縮図になっている。

『敦煌九層塔』   平山郁夫   日本画


仏縁

1959年の初夏、29歳の平山郁夫は青森の八甲田山で写生する最中、目の前に不思議な映像が浮かんだ。「山の緑の中からなんと境が見えない砂漠が広がり、白馬に乗る僧侶が、この死の海を進み、その行き先に蜂巣みたいな石窟が立ち並んでいる……」平山郁夫はその僧侶が玄奘法師で、幻の石窟が敦煌莫高窟であることがわかった。

その年で、平山郁夫は芸術人生のターニングポイントとも言える作品『仏教伝来』を発表し、絵の中に僧侶二人がそれぞれ黒と白の馬に乗り、暁の微光の中で前へ進む姿が描かれ、人々に真理を求める勇気と希望を与えている。絵の周りに飾られた白い鳩や植物が暗い背景で際立っている。『仏教伝来』の発表により、平山郁夫は日本の美術界に頭角を表し、その後『入涅槃幻想』『大唐西域壁画』など仏教をテーマにした作品を以て,トップクラスの日本画家となった。平山郁夫は「玄奘法師が導いてくれたお陰だ」と述べている。

1958年、敦煌文物研究所(敦煌研究院の前身)が主催した「中国敦煌芸術展」は東京と京都で開催され、当時まだごく普通の芸術生徒だった平山郁夫は人生で初めて敦煌壁画の模写を目にした。その時から、敦煌に行く思いが芽生えた。

1958年東京 常書鴻が司会を務める『中国敦煌芸術展』模写作品展


夢を叶う

20年経った1979年、49歳になった平山郁夫に遂に敦煌を訪れる機会が訪れた。1979年9月19日、長い道のりを経て平山郁夫はついに敦煌の莫高窟に辿り付き、夢にまで出た敦煌を現実で描き始めた。敦煌研究院の名誉院長である樊錦詩の話によると、平山が莫高窟に到着したのは夕暮れ時だったが、砂漠にポツンと出る白楊樹の姿を見かけると、旅の疲れも忘れ、「九層楼」に駆けつけて、我を忘れたかのように大仏殿の九層楼閣を描いていた。あの時、風が白楊樹の間を通り抜け、葉が舞う音が聞こえ、九層楼の風鈴が鳴って、日が暮れていき、鳴沙山の砂が鳴いていた。彼は暗くなるまで書き続け、気分が高揚している中、遠くから風鈴の音とともに僧侶の読経の声すら聞こえるようになり、そのまま描き続けていきたいくらい夢中になっていたという。

1979年敦煌で写生中の平山郁夫

1979年 敦煌研究所 常書鴻と話す平山郁夫

1979年敦煌莫高窟の壁画を模写する平山郁夫

敦煌第220窟に連れられた平山郁夫はそこにある壁画に明らかに驚いた様子だった。第220窟には貞観16年(642年)の寄与の銘文があり、唐の初期に書かれた壁画は絵の名人である顧愷之のスタイルに似ていて、上品で優雅な雰囲気が感じられた。『維摩詰経変相図』は女性たちが楽師の演奏した西域の曲に従い、踊っている様子を描いた絵で、長い歳月の影響をも受けず、鮮やかで、まるで「絵の宝箱」のようである。

莫高窟第220窟の壁画『維摩詰経変相図』の一部

その後、平山はほぼ毎年敦煌に来るようになり、唐の玄奘法師がインドに渡り仏経を得たように、敦煌にある唐の壁画に日本古代絵の源を見つけた。敦煌に行く度、壁画に魅了され、模写することに夢中になっていく過程で、敦煌莫高窟の芸術品保護に課題があることに気付き始め、莫高窟を守るべく、力になりたいと考えるようになった。

守護

1980年代半ばから、平山郁夫の斡旋によって、敦煌研究院と東京文化財研究所が連携し、敦煌石窟の科学研究と保護活動を合同で行い、多くの成果を上げた。彼は日本の政界要人に莫高窟保護の重要な意義を繰り返して説得したことで、1988年日本政府か「敦煌石窟保護研究展示センター」の建設に十億円の無償寄付金が提供された。彼は、積極的に敦煌芸術の保護と展示に寄与した。

1989年、平山郁夫は個人美術展の全収入の二億円を敦煌研究院に寄付し、「中国敦煌石窟保護研究基金」が設立され、敦煌文物事業の発展の促進に重要な役割を果たした。

1994年8月21日、「敦煌石窟保護研究展示センター」の落成式に竹下登元首相が出席し、テープカットを行った。これは日本政府から中国に提供した初めての無償援助プロジェクトである。

1988年莫高窟で「文化遺産保護振興財団」を設立した平山郁夫

1994年「敦煌石窟文物保護研究展示センター」正式に設立

記念碑落成式での竹下登元首相夫妻と平山郁夫夫妻


敦煌研究院は平山郁夫の敦煌文化遺産に対する多大な貢献を記念すべく、莫高窟の入口に記念碑を設立した。平山郁夫は東京芸術大学の学長として、敦煌研究院の若い研究者たちと芸術家に東京芸術大学に留学する機会を提供した。彼が提案した人材交流と合同研究プロジェクトは今日でも続いている。


左側から 敦煌研究院院長段文傑と中日友好協会会長孫平化と平山郁夫 莫高窟において(孫志軍撮影)


後書き

平山郁夫は年を取っても人類の文化遺産である文物を守るため、各地を駆け回り、各国の力を合わせるように呼びかけて,日中間の文化交流を積極的に推し進めていた。彼は真摯な態度で、昔の玄奘法師が万里も遠く西に経典を求めるように、2009年に病気で亡くなるまで努力をやめなかった。

2018年8月1日,『中日和平友好条約』締結40周年に際し、『平山郁夫のシルクロード——地中海から中国へ』という特別展覧会が行われ、平山郁夫を敦煌に「再会」させた。

平山郁夫の敦煌莫高窟の写生作品


敦煌研究院名誉院長の樊錦詩 文化クリエイティブグッズコーナーでの記念写真

その後、平山郁夫が敦煌芸術にアイデアを貰い作った作品の数々は、世界各地で展示され、敦煌芸術を各国で伝播している。彼の影響を受けた学者たちは敦煌学、美術模写研究、石窟考古、文物保護などの分野で研究を深め、日中文化交流と相互理解をさらに促進している。

—「日本黄山美術協会」より


ABOUT US