夜が明けないうちに、少林の弟子たちの練習の声は嵩山に満ちていた。朝、子供はすでに朝の授業を終えて列を作って帰ってきて、観光客の見物に直面して、誰も気にしていない。子供たちの顔に太陽の光が当たり、若い元気がこの古い場所に昇ると、少林寺の物語はここから始まる。
山の中に寺がある
嵩山の少室山の北には、密林の中に嵩山より名声の高い古刹がある。これが少林寺、「少林者、少室の森だ」。
毎朝8時、少林寺観光地は定刻に開門し、数万人が続々と訪れ、寺院はすぐに観光客が密集する繁華街になった。この時、少林和尚たちは観光客に開放されていない東西両院に退くしかなかった。
世界的に有名なこの古寺は、本当に僧に属する時間は日の出の前と日没の後だけだ。午前5時、全寺の僧が大雄宝殿に集合して座り込み、読経を始めた。この読経の声は五乳峰の下で1500年以上続いている。
武術で有名だが、少林寺の禅文化の影響力は、「武」よりはるかに高い。
西暦495年、インド出身の僧仏陀跋陀羅が中国に来て、訳経と講経のため、当時の皇帝孝文帝はわざわざ彼のために少室山の北に少林寺を建てて、彼は初代方丈として、そこで少林寺は仏法重地を伝えて確立した。
西暦527年、もう一人のインド僧菩提達磨が中国に来て、「忘却損得、渡己渡人」という大乗仏法を宣伝しようとしたが、当時中国で流行していたのは小乗仏法だったので、達磨は少林寺に来て、遠くない山の上に洞窟を探して、9年間に一人で瞑想して、受け入れやすい仏法東土禅宗を悟った。彼は今も中国禅宗の始祖と認定されている。
達磨洞
達磨祖師像
中国にはお寺がたくさんあり、少林寺だけにかわいい「小僧」がいる。仏教の規定によると、子供は7歳になると沙弥戒を受けることができる。
少林寺には、少林寺の俗家弟子として、寺の生活を体験したり、少林武術や文化を学んだりするかわいい「小僧」たちがいる。
天下武術は少林寺に由来する
武術小説では、少林寺はいつも重要な身分で登場し、武術の上手な少林和尚は山門を守り、正義を主宰し、江湖を歩き、不平を抱く。
少林武術の始まりは、跋陀と達磨が少林寺伝経修行の間、体を鍛えるためにまとめた拳法で、後世に融合し、武功の道を形成したと言われている。少林武術の最初の目的は、敵を防ぐためではなく、体を鍛えるためであることがわかる。そのトレーニングの概念が形になっていなかった遠い時代、少林は時代の先端を歩いていたと言える。
少林寺練功房
隋朝唐初、少林寺の十三棍僧は李世民の洛陽平定のために大きな功績を立て、唐王は自ら表彰し、少林武術は一戦で有名になり、少林寺も天下第一名刹と称賛された。だから唐(西暦618年-907年)から、少林寺は「僧兵」の存在を許可され、少林武術は安定的に発展し始め、民間の伝説の中でも、徐々に神秘的になってきた。
少林武術が「気の力」の原因ですごくなった。少林寺は、国内外の中国人が心に刻む民族記号であり、どんなに遠い国でも、東方の誇り、千年の思い、中国人は少林寺の存在に安心している。
霧をかき分けて少林を見る
1982年、映画『少林寺』が公開され、大きな注目を集めた。同時に、金庸武術小説や武術ドラマも流行し始め、少林寺の地位が上昇した。
半世紀以上ぶりに、嵩山少林寺には仏法と武術を学びに来た人たちが再び迎えられた。夕暮れの少林寺には新しい世代の力が注入され、再び生気を取り戻した。
少林寺の演武場では、武術を習う子供や大人が多く見られ、中には遠くから来た外国人も少なくない。少林寺に住んでいた2日間、インドから来た少林俗家弟子Johnと知り合い、小学生の頃、隣から少林寺のことを聞いて憧れた。大学卒業後、教師を辞め、単身少林寺に渡り、少林武術を学んだ。
最後に、少林文化が世界に向かっている間に、禅の純粋、武の勢い、人々の少林寺への美しい想像を常に持っていることを期待している。
—「地球旅客」より