茘枝湾は二千年もの昔、広州の街が作られた当初から存在する。歴史上の茘枝湾は、茘枝湾路の駟馬涌近くにあったが、現在では主に石雕牌坊の後方、龍津西路の一帯を指す。グレースはこの近くで何年か生活している、今日は彼女とともに茘枝湾の今の姿を見に行こう
9:00 源記腸粉:待っているだけでは永遠に味わえない腸粉
陳家祠駅で下車し、人々で賑わう龍津市場を抜け、買い物客でひしめき合う屋台に分け入ってみると、おじさんおばさんたちが新鮮な肉や野菜を自分のカートに投げ入れている。早朝の街は非常に活気がある。
もちろん、遠回りしたとしても、私たちにとって大切なのは源紀の腸粉だ。ここの腸粉は一口頬張ると皮が薄く、柔らかい。このあたり一帯で源記を知らない人はいない。源記の腸粉は出来上がったものからすぐ並べられ、それを客が自分で取るシステムになっている。皆お隣同士なので、誰かが勝手に取っていってしまうのを気にする必要もない。昼には始業のチャイムに追わるようにやってきた学生たちがお腹を空かせた獣のように腸粉を食べ、夜更けには深夜ドライバーたちが仕事の締めに生滾粥と呼ばれるお粥を必ず頼む。店のメニューはこの2つだけだが、この2つのメニューで朝食から夜食まで30年間切り盛りしてきたのだ。
10:00 龍津西路:消えつつある「馬蹄粉」の店
広州人は非常に験を担ぐ。新年や折々の節句は特にそうである。昔、それぞれの家庭では粉を使って「糕」(こう)と呼ばれるお菓子を作り、出世を意味する「高昇」(こうしょう)とかけ、とんとん拍子に成功するよう願いを込めた。昔、ある者はこの習慣に商機を見い出し、当時の茘枝湾ではどこにでも普通に植えられていた馬蹄(シナクログワイ)を粉にして、唯一無二のヒット商品を開発した。こうして、茘枝湾のすぐ近くの龍津西路には、大小様々な馬蹄粉店が立ち並ぶことになった。
耀記馬蹄粉は営業開始から100年が経った。現在の店主によると、この通りには、最も栄えていたころは40以上もの馬蹄粉の専門店があったが、現在では10店足らずになってしまい、通りのあちらこちらで点々と店を構えているという。現在、わずかに残る馬蹄粉店はみな馬蹄糕や馬蹄爽を兼売しているが、ここ輝記では変わらず馬蹄粉だけを扱っている。
現在、各家庭が自分で「糕」を作る時代ではなくなった。馬締糕の技術は徐々に忘れられてきており、少しずつ消えていく馬蹄紛の老舗と同じく、このあたりの集合記憶になっている。
11:00 泮塘五約:新旧の光景が交錯するところ
龍津西路を抜けると、知らず知らずのうちに泮塘五約にたどり着く。ここは900年前、茘枝湾が最も栄えていた時代、その時流に乗って生まれた場所だ。時の流れに応じて世も移り変わり、賑やかな通りであったここ岭南古村も大部分の人は去った。建物の多くは空き家となり、昔からここに住んでいた人も少しずつ少なくなっている。空き家は、あるものは倉庫として安く貸し出され、またあるものは扉に重いカギが下ろされ、接収され更地となり建物の残骸をあちこち残すものもある。
喫茶店、おしゃれで可愛い雑貨屋、芸術作品の展覧会進出にいたるまで、泮塘五約の生活の息吹には変化が生まれている。ある店に入ると、バリスタがコーヒーを手淹れしていて、その香りが漂ってくる。同時に、ご飯が炊ける匂いもしてくる――向かいの家は野菜を積んで昼ご飯の支度をしている。「危房(老朽化につき危険)」と注意書きされた建物と、その隣のおしゃれで可愛いお店にあるクリーム色の椅子、そのコントラストが鮮やかだ。若い男女が古い建物の前で記念写真を撮ろうとすると、まだシャッターを押さないうちに、家主が扉を開けて出てくる。彼が手にしたラジオからは、「では、前回の続きを」と、広州人にはおなじみの連続ラジオドラマの前口上が聞こえてくる。
入り乱れて雑多としたこんな光景は、泮塘五約では日常茶飯事だ。村民たちは見慣れているらしく、昔と変わらずご近所と噂話に花を咲かせる。ここでは、いろいろなものを包容することで、新しい変化を受け入れているのだ。
13:00 海山仙海:清代最大の私家庭園を訪れる
泮塘五約から東にずっと歩いて行くと、茘湾湖公園にたどり着く。きらきらときらめく茘湾湖の青い湖面に、四阿や楼閣が映り、素晴らしい庭園風景を成している。
また、ここには私家庭園がある。清代の富商、藩仕成は亭辟湖を修繕し、当時の私家庭園では一番となる海山仙館を建てた。1998年の再建後、蓮が多く植えられ、近隣住民にとっては食後に足を運ぶ場となっている。
14:30 茘枝湾:広州式のLive Showを聴く
幼い頃、私の祖父はどこへ行くにしても遠回りをして茘枝湾をぐるっと避けて通った。彼は、雨が多い季節になると遠く離れているのに食べ物が腐ったような匂いがすると言っていた。大きくなって初めて私は、彼が茘枝湾のことを言っていたのだと知った。ずっと排水路のことだと思っていたのだ。20世紀の半ば、茘枝湾は両岸の緑が伐採され、建物や道路ができ、埋め立てられ、そこに次第に排水が溜まるようになった。今では茘枝湾は再生され、昔の人気を少しずつ取り戻している。
河畔の片側は粤劇のステージになっていて、毎日定刻2時半になると「広州式Live Show」が上演される。おじさんおばさんたちがやってきて、まだ時間になっていないうちから前もって席を取る。通りがかった若者たちも思わず足を止めてしまう。
16:30 西関大宅門:西関の隆盛の痕跡を訪ねる
茘枝湾を出て、騎楼に沿って多宝路方向に行くと、西関の旧邸を少なからず目にすることになる。その中でも一番人目を引くのは西関大宅門だろう。700平方メートル以上ある世紀の豪邸で、目測で高さ10メートルはあるアーチ形の門が、一階にある7つの貸し物件に跨って立っている。門には埃まみれの2つの赤い大提灯が昔と変わらずぶら下がっている。おそらく当時の官僚や富商の大家族が住んでいたに違いない。今では、大門は固く閉じられ、住む者もなく、かつての主もその様子を窺い知ることはできない。
西関大宅門の向かいの宝源路には、道全体に沿って、似通った竹筒屋(縦に細長く横幅が狭い家屋)が昔と同じ形で残されているが、やはり今ではほとんど人が住んでいない。しかし、錆ついたクラシックな窓飾りや、木製の防犯扉、それぞれの建物が寄りそうように配置されている全体像などを見ると、栄えていたころのかつての西関の様子がぼんやりと感じられる。
17:30 成裕雪糕(アイス)店:20年経った今でも変わらぬ味
このお店の珍おばさんは20年前、会社をリストラされ、アイスを売り始めた。支えてくれたのは、街の人や近くの学生たちだ。昼休みや放課後になると近くの第100中学の学生たちの姿を見ることができるこのアイス屋は、もうほとんど第二食堂である。店と彼らはともに成長してきた。中には、学生時代からのカップルが卒業後わざわざここにやってきて結婚写真を撮ることだってあるそうだ。
茘枝湾の再生後、アイス屋がネット上で新たな聖地として人気になるなんて、誰が想像しただろうか。それでもおばさんは笑いながら、「いつも通り朝8時から夜8時まで仕事をするだけだよ、風が吹いたらぜんぶ元に戻っちゃうんだから」と語る。長い行列ができようと、お客さんが来なくてがらがらだろうと、おばさんはいつも平常心だ。考えてみれば長いこと、この店の近くに寄ることがあると、ついでにダブルのアイスクリームを買って誰かに持って行ってあげたものだ。手作りのコーンは卵の香りがしていて暖かくサクサクで、子ども時代の味をずっと保ち続けている。
19:00 津津菜館:街の大食堂
まだ7時になっていないのに、津津菜館の客席は入口前の廊下にまで並べられている。離れたところにある待合所の席もすでに満員だ。市をなすようなそんな賑わいが、ここ津津菜館では毎日繰り広げられている。ここまで大人気なのは、味が非常に素晴らしいからではない。客の多くは、日々の食堂や夜食を食べる場所として、ここに来るのが習慣になっているのだ。王さんはこの近くで育ち、よそに引っ越した今でも、昔の同級生たちと変わらずここに集まる。2、3品の炒め料理と一杯のお酒を手に、人々は夕食から夜明けまでをここで過ごす。真っ暗な街の通りゆえ、その賑やかさはとても際立って見える。
20:30 東成士多:心通じる人を待つ場所
「午後2時半に街口士多で待ってるね。」「ちょっと外に出ておいでよ、街口士多においで。」茘枝湾に行くときに必ず通る十字路の隣には、「街口士多」(街口とは街の十字路のことで、士多はstoreの音訳)という別名で呼ばれるお店がある。
「茘枝湾近くのナイトライフってどんな感じ?」私はかつてそう聞かれたことがある。茘枝湾のもう半分である永慶坊には落ち着いた雰囲気のバーが少なからずあり、ここで音楽とともにほろ酔い気分を楽しむのも気分が良い。しかし、なぜだか知らないが、私はやはり士多に腰を下ろして過ごすのが好きだ。風が吹く夜、そこでビール2本とピーナッツ1袋を手に、友達と夜通しお喋りするのなんかもいい。
茘枝湾は確かに「年寄り」だ。泮塘ターミナルから出発する66番のバスの速度は人が歩く速さよりも遅いぐらいである。旺記焼腊や明記屎坑紛など、名前を挙げられる周囲の店の歴史はどれも30年を超えている。しかし、新しくオープンした原本工坊や陸羽茶室などは、西関の風景や人間味などを思う存分体験する上で旗振り役を担っているし、スターバックスも茘枝湾を出店地として選び、嶺南の風情が濃厚なリザーブ店を開いている。ここでは時代の潮流と伝統文化が熱い火花を散らしているのだ。
ひょっとしたらこの二千年、茘枝湾の風景や広東人の人間味は薄まり続け、そして現在の私たちが目にするような姿になったのかもしれない。そんな文化の変遷は留まることなく続いていくことだろう。
—「グレイシー」より