遣唐使の阿倍仲麻呂も愛した、歴史と運河の街、江蘇省鎮江市の旅

東アジア文化の都は中日韓三国が2013年に共同で発起したアジア初の国際文化都市命名イベントであり、現段階中国文化分野における最も認可度の高い国際ブランドの一つでもある。毎年、中日韓三国からぞれぞれ一つの都市が選ばれる。長江と大運河の交差点にある鎮江は、2023年の東アジア文化の都の候補都市となっている。

鎮江の文化は各方面に体現されている。独特な地理的位置にあるため、鎮江は南下と北上するのに必ず通る道であり、大運河の重要な交通中枢である。あなたがよく知っている有名人、聞いたことのない古人は皆ここから上陸したり、泊まったりしたかもしれない。文字は人々が感情を表現する最高の道具である。人々が通りかかるたびに筆を取り、詩を残した。その詩は架橋のように、時空を隔てた私たちを繋いだ。するとその時の月は今夜の星空に輝くことができた。

芙蓉楼

「寒雨江に連なって、夜呉に入る。平明客を送れば、楚山孤なり。洛陽の親友、如し相問わば。一片の氷心、玉壺に在り。」詩人の王昌齢は芙蓉楼で友人を見送る際に、感銘を受けて、友人に自分の初心を洛陽に持ち帰るように言った。この詩は日本の教科書にも選ばれたと言われている。かつてある日本人がここを訪れたが、芙蓉楼はとっくに消えた。この芙蓉楼はもともと西北楼と呼ばれ、頂上に登ると長江を見下したり、江北を見渡すことができる。確かに歴史の長い川に消えていたが、近年は金山湖の畔に再建された。夕日の光りが金山湖に反射するたび、水面が輝き、芙蓉楼の姿を映し出す。なんて素晴らしい景色だろう。

北固楼

「何処望神州、満眼風光北固楼。」

辛棄疾は中国宋の時代の詞人であり、彼の詞は常に民の苦しみと天下の興亡を見尽くす風格がある。彼の心に秘めた怒りと豪情壮志もすべてこの言葉に託された。彼には北固楼は素晴らしい景色を眺める場所である。実際にもそうである。北固楼は北固山に位置しており、ここは「天下第一江山」と呼ばれている。三国時代、劉備と孫権は北固山で大計を商談し合った。山に登ると、斑だらけの東呉時代の城壁が見える。千年の歳月が過ぎたが、新しくできた苔がここの生命力を語っているようだ。「千古興亡多少事、悠々、不尽長江滾滾流。」

西津渡

「金陵の津渡小山楼、一宿の行人自から愁う可し。潮落ちて夜江斜月の裏、両三の星火是れ瓜州。」これは渡し場に書かれた詩であり、夜の長江の景色と大運河の対岸の瓜洲渡し場が見える。詩の中の金陵渡は西津渡を指す。西津渡古街は鎮江の「生きる歴史」とも呼ばれ、元の時代にイタリアの有名な旅行家マルコ・ポロが鎮江に訪れた時も西津渡に上陸したのである。科学技術の進歩と時代の発展に伴い、現在の西津渡は次第に渡し場としての機能が弱くなったが、生きる化石のように、その風貌はほとんどに完全に保存されている。千メートルの古い街、唐宋の青石の街、元明の石塔、晩清の楼閣、民国時代のイギリス領事館、眺めたら、千年の歴史がすべて目に入る。

『天の原』

『天の原ふりさけ見れば春日なる。三笠の山に出でし月かも。』

中国国内の文人だけでなく、鎮江に日本人の足跡も残っている。遣唐使の阿倍仲麻呂は中国で50年余り過ごし、帰郷の途中で鎮江を通り、夜に鎮江に泊まった。優しい月明かりには魔力があるようで、いつも人の心の中で最も脆弱な感情を引き出せる。例外なく、阿倍仲麻呂も月を見上げて郷愁を感じ、この有名な『天の原』を書き下ろした。中国にいるとは言え、心はとっくに月明かりとともに奈良に飛んでいった。帰郷は彼の願望であり、最も残念な期待でもあるだろう。結局中国に来てから、故郷に帰ることができなかった。故に、この詩も更に人を感動させる。今、この詩は中日両国の書家に共同で書かれ、北固山の詩碑に刻まれている。機会があれば、ぜひ見に行ってください。

気づいたと思うが、鎮江に関する詩には多かれ少なかれ、別れの悲しみが含まれている。皆が鎮江の渡し場で別れを告げたからだろう。旅人はいつも人情の温かみを懐かしむ。疲れた旅に人々は家の快適さを欲しがり、未知なる前路に家の暖かさを思い出す。鎮江の詩は味わいが深く、長い物語が潜んでいる。東アジア文化の都の物語はまだまだ続く......


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