Wechatのモーメンツでも、Weiboでも、各動画配信サイトでも、長沙の存在感といったら半端ではない。長沙というこの都市に足を踏み入れると、灯りが一晩中明るい通りに姿を現すインフルエンサーたちが目に入り、多くの店舗の前で行列がある光景に驚くだろう。長沙という都市はうるさく、グルメやエンターテインメントのほかに何もないと言われているが、長沙の人気は表面だけのものではないのだ。人気になった時期は前にもあったが、今は再びブレークしたのは偶然なことではないだろう。その人気に疑問を持つなら、「娯楽の都市」とも呼ばれる長沙に行ってみたらどうだろうか。おそらく「臭豆腐」を食べた後が食べた前と違う顔になるように、その疑問がすっかり解けるだろう。
長沙はピカイチの人気者
この数年間、SNSで人気に火がついた都市として、長沙はあっという間に人気の頂点に立ったようだ。長沙はかつて、湖南テレビや臭豆腐で人気になったが、今はSNS映えのランドマークとグルメが数えきれないほどある。
長沙が人気になったのはある程度今どきの気運に乗っているからだろう。コロナ禍のため、短い距離での旅行が流行り、長沙が「すぐに行ける」旅行先として最適な場所だと言われた。そのほか、長沙がアピール上手な都市だということも一因であろう。「茶顔悦色」と「超級文和友」を代表とする「国潮」グルメと定期市文化、岳麓書院、橘子洲や省級博物館などの人文景観、「野暮の極み」と呼ばれる万家麗広場、ブームになったIFS金融センターを代表とする消費文化が揃い、豊富で多様な文化が長沙の一番の特徴になり、長沙は活気に満ちている。
SNS映えの長沙はどのように作り上げられたのか。
世間に好かれる都市になったのは表裏がないその品格のおかげだろう。城跡は二千年も変わっていないのに、重厚な文化の根干を守ることはなく、むしろ、この世の中の喧騒と花火を受け入れ、血のようなしなやかな姿勢から抜け出している。
長沙に染み込んだ熱い根性は「楚文化」と切っても切れない関係がある。楚文化の核心は「狂」で、「狂」というのは生命への情熱で、命の自由な表現や個性の伸びとも言える。楚人の「狂」は今の長沙をバラエティに富んだ都市にし、岳麓山を代表とする書生気質や世間の厚い義理人情が共存している。岳麓山に登って、書院で静かに座りながらお茶を飲んだり、橘子洲の先で志を大いに話し合ったりする一方で、夜市で高熱が出るほど辛いザリガニを堪能して、解放西路で杯を交わしながら語り合うこともできる。
移り変わりが激しい時代の流れを前にして、長沙は瞬く間に変わっていく世間を早くも見通していたようだ。世間を楽しませるためのうわべだと、物事をあまり理解していない人たちは思っていたが、それは長沙自身の魅力によるものである。
エンターテインメント、それこそ長沙の基盤にあるもの
長沙はお金持ちが一生懸命働く都市である一方で、貧乏人でも一擲千金を狙える都市である。長沙に行くなら、特にグルメやエンターテインメントに関してはお金を惜しんではならない。そうしないと、長沙に来た意味がわからない。長沙は買い物天国とは言えないものの、娯楽や消費のための戦場のようなところだ。ここでの楽しみは「即時的」で、ペースが速く、直球で偽りない。それはまるでこの都市の辛さのようで、重慶のように食後に痺れるのではなく、舌先を熱くさせるこの都市特有の辛さのようなものだ。
長沙人はエネルギーに満ち溢れているようで、騒ぐのが好きで、時にはうるさすぎると感じるかもしれない。夜中でもタニシやビーフンをすする音も聞こえるし、道端で誰もがマイクやステレオ一つで「私がスーパースターだ」と言わんばかりに歌を歌っている。長沙は騒がしいだけではなく、河東と河西に分けられ、別々の世界をなしている。賑わう河東と比べて、河西は自然環境に恵まれて文化的な景観がたくさんある。河東の賑わいが飽きたら、河西に足を伸ばし、岳麓書院、李自健美術館、謝子龍影像芸術館、梅渓湖国際文化センターなど文化や芸術の雰囲気が漂う場所を巡ることができる。
長沙は住宅の値段は全国的に見てもよく抑えられているエリアであるため、ここに住めば、お金はそんなにかからないし、グルメやエンターテイメントが溢れるナイトライフは一流都市に比べても劣らない。広州で三年間働いた何敏敏さんは今年湖南省に戻って長沙で働くことを決めた。何さんにとって、その決意をしてから、家の購入に際して溜まっていったストレスがやっと解消できたようだ。長沙に戻ったら、食べ飲みをしたり、遊んだりする時に思う存分楽しめばいい、というように彼女は考えているのではないだろうか。
長沙の最終形は娯楽に耽る都市ではないかと言われているが、誰でもそういうことを気にしていない。長沙ではそんなに真剣に考えなくてもいいのだ。今を生きている若者にとって、楽しむことは正義の道にとってかわることはできないのではないだろうか。
—「九行」より