蕪湖。この町は歴史書の中では「王敦城」と呼ばれている。その由来は三国・両晋時代の将軍王淳である。当時、町は軍事戦略の要塞地帯に位置しており、開発と利用がいっそう進められた。その後、担っていた軍事的役割が薄まると、町はその名を「蕪湖」と改めたのである。王敦が言及していた、この一帯で捕れる魚やエビやカニは、今日では蕪湖人の手によって蝦子麵、火烘魚、蟹黄湯包などのグルメとなっている。新鮮な淡水魚介グルメと反逆の性格は、蕪湖という町の成り立ちの遺伝子であり、町が千年続いてきた遺伝子でもあるのだ。
NO1.壹
字面から理解すれば、蕪湖とは雑草が長く覆い茂った湿地のことである。この土地に最も早く落ち着いた人々は、北方から来た山西士族と難民だった。この南方の地で、晋から王朝の基盤として大切に扱われた北方移民である彼らは、それぞれ新しく越してきた土地に自分たちの故郷の名前をつけた。ほかにも、蕪湖には北方風の民俗が多く残されているが、その理由は想像に難くない。
たとえば、今日の蕪湖人はやはり麵食に尋常ではない愛情を持っている。これも元を辿れば、おそらく山西移民たちが持ち込んだ飲食習慣や味覚遺伝子と無関係ではないであろう。
「光麵」あるいは「光頭麵」とは蕪湖人が最も日常的に食べる麵の一つである。江蘇や浙江の「陽春麵」という上品な名と比べると、蕪湖の光麵という名は率直で分かりやすい(ここでいう「光」は「何もない」という意味である)。しかし、その作り方には一切の手抜きや妥協がない。豚骨と鶏ガラを長時間煮詰めて取ったスープにラードを一匙加え、そこに沸騰したての湯にさっとくぐらせただけの手打ち麵と緑鮮やかなアブラナを合わせると、一碗に3つの勢力が鼎立する。もし荷包蛋(両面焼きした目玉焼き)を付け加えれば、蕪湖人にとって最も日常的な朝食の完成である。
一方、大肉麵の核は口に入れたらたちまち溶けてしまうほど煮込んだ豚バラ肉の醤油煮である。スープに溶け込んだ脂の香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。老舗である六朝居老麵館はこの味だけで蕪湖の麵食界を百年駆け抜けてきたのである。
蝦子麵に使用するのは淡水エビの卵のみである。ショウガと醤油と共に中は柔らかく外は香ばしくなるまで炒めたパウダー状のエビの卵を麵の上にかけて食べる。その美味しさは他とは比べ物にならない。お隣江蘇省の三蝦麵と比べると、蕪湖の蝦子麵ではエビの肉やミソを使わない。そうすることで味覚の神髄を保つと同時に、この蕪湖という町がそうであるように、市井の雰囲気やこの土地ならではの大地の力がより宿るのである。
湯包は蕪湖の江南の風情が反映されたおやつである。この湯包、じつは江蘇の蘇州・無錫・常州地区の「小籠饅頭」によく似た見た目をしている。一つ一つを一口で食べられる小さな饅頭で、半発酵させた薄い素地の中ではゼラチン状に固まったスープがプルプルと揺れ、溶け出した汁が食欲を誘う。湯包は蕪湖のほとんど全ての朝食店のメニューにある。人々からとても愛されている軽食だ。
大根の千切りが餡として入っている千層酥焼餅や甘さとしょっぱさのバランスがとれた椒塩餅、脂身の多さでは一番の肉焼餅、木犀の花のジャムが入った桂花焼餅など、さまざまな餅(小麦粉を焼いたり蒸したりして作った食品)は蕪湖が南方の麵食の都であることのさらなる説明である。
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南北朝から南宋にかけて、古代中国の経済の中心は少しずつ南へと移動していった。この頃から緻密さと優雅さは江南の代名詞となった。この800年間、江南地区の一員である蕪湖も遠くまで名の通った江南の美しい町へと少しずつ姿を変えてきた。また、各地の宦官や商人、担ぎ屋、使い走りの往来は寛容なグルメの遺伝子を蕪湖にもたらすことになった。
渣肉蒸飯は本質から言うと江西粉蒸肉と白飯が結合したものである。味をよく吸う千張絲(豆腐を湯葉のように薄く加工して千切りにしたもの)は、このグルメの味わいの長さを極限にまで高めている。
炒涼粉は四川の涼粉と江西の炒め料理の融合である。水晶のように澄んだ涼紛の上に唐辛子、殻ごと乾燥させた小エビ、そして大根などの薬味を乗せる。その味わいは濃厚で深く、口当たりは柔らかくて滑らかだ。
赤豆酒醸は蘇州の緑豆湯の改良版である。指で押すと潰れる程度に煮込んだ小豆と甘く香る酒醸(米飯を発酵させて作った甘酒のようなもの)を混ぜたあと、冷やして容器詰めする。夏の蕪湖の街における絶品と言ってもいい一品である。
ほかにも、蕪湖は知る人ぞ知るアヒル料理の町でもある。蕪湖人が毎日消費するアヒルは5万羽を超えるというから、「アヒル地獄」という名も決して伊達ではない。蕪湖人が口にする紅皮鴨子と無為板鴨は、実は南京烤鴨と塩水鴨から生まれたものである。違いとしては、紅皮鴨子は刷毛でタレが塗られている。また、皮は南京烤鴨のようにパリっとはしていないが、肉汁がより多い。そして、肉質がしっかりとしていて歯ごたえに富んでいる。
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近代に入ると、蕪湖にも現代的な都市規画や当時の世界の科学技術水準に合致した学校、病院、工場がもたらされた。現在、蕪湖の経済発達の水準は省都に次ぐ安徽省第二である。そんな蕪湖の文化的自信は飲食面でも反映されている。ある面から言えば、安徽本土の臭菜、黴菜は蕪湖で最も緻密に作られているし、またある一面から言えば、江蘇・浙江地区の清蒸、紅焼(料理法)も蕪湖に根を下ろして芽吹き、融合しているのである。
今日、毛峰薫鰣魚、蟹黄蝦盅、鮮蝦藕餅、百子酥肉、紅米炒河蟹を含む数多くの安徽の名菜は、いずれも蕪湖地区を起源とするものである。安徽人は蕪湖とその周辺都市の料理をまとめてイメージして「沿江菜系」と呼んでいる。沿江菜系は中国で最も早く誕生した融合料理系統の一つであり、中国料理の現代化の模範である。
このような蕪湖の先進的な飲食観は、昔から今に至るまでその歩みを止めたことがない。同時代の国内の他の地域が手作りや職人、老舗というキーワードに囚われているときに、蕪湖は早くも工業化・現代化を果たした都市として、工業と飲食を結び付け、自らの町のブランドを打ち出した。食を以て中国全国に影響をもたらすというレースにおいて、蕪湖はこれまで一度も他に後れをとったことはないのである。
時を322年に戻そう。将軍王敦はここ長江の良港に町を築いた。当時、ある人からこの地の耕地は成熟していないので軍隊を養えないのではないのかと問われたとき、彼はこう答えたという。「魚やエビがあたり一面にいるというのに、何を心配することがあるのだろうか?」。後の蕪湖の味わいと命運はこうして決定されたのである。
—「食味芸文志」より