烏鎮、本当にロマンチックな観光スポットだ。小橋の下でのんびりと船を漕いでいて、静かで奥ゆかしい路地、白い壁に黒い瓦という徽派建築スタイル、木門と緑の植栽、足元は青石畳の道だ。私はゆっくりと歩いて、まるで絵に入ったようだ。
この絵には静かな水郷があり、朝、地元の人が窓を開けて叫ぶと荷物を満載したボートが止まった。この絵には雨が入っていて、黒い瓦に沿って、ドアの前で珠網を織って、水を隔てて景色を見て、雨の中で人の顔が見えない、この絵には青磚黛瓦が入っていて、木門花窓だ。暖かい灯火が扉に落ち、質朴で明るい。黄色の明かりが水に照らされ、浮光金を躍らし、静影璧を沈むようにする。
西柵には自分だけの趣がある。
西柵の最初のロマンは雨が降っている時に
烏鎮に行く数日前まで雨が降っていて、小雨の中、橋の上に立って流れている西市川を見ていた。周りのすべてがぼんやりしていて、針のような細い雨が、烏鎮という絵に刺繍をしているようだ。道は湿った跡だらけで、雨の中の西柵はまるで仙境のようである。
このような雨の日は傘をさす必要はない。私は魚のように、西柵を行き来して、ゆっくり泳いでいる。水に面した部屋があっても窓を閉めることはない。この時の烏鎮には水郷だけの優しさがあった。にぎやかさは雨の音に覆われ、心も静かになり、天地万物は今では虚無になっている。私が思っているのは、窓の外の景色だけだ。
西柵の二番目のロマンは夜に
日が落ちたばかりで、両岸の部屋が明るくなり、白い壁が明かりの色を映し出した。この時の烏篷船は最もにぎやかで、私は船で橋と渡場を通り抜けた。パドルが水面を軽く動かし、明かりが水の中で揺れ、光と影がここで重合し、また分離する。水の波の中で両岸の灯火を見て、水面が光を受けてきらきら波打ち、光が私たち自身であることを発見した。
夜のとばりが降りると、西柵観光区の街では、夜巡りする人がどらや太鼓を鳴らして「天気が乾燥するにつれて、地上の万物も乾燥する、火の元に注意」と叫んだり、私には分からない歌を歌ったりして、まるで私たちをあの古い時代に連れ戻したかのようだ。
夜中、民宿の営業を終え、昼のにぎわいがなくなり、町は静かになった。昼間は長蛇の列ができていたお店も終わり、たまにお店が開いていて、帰りの遅い人たちを待つ。道端で牛肉麺を注文して、地元の特色ある三白酒を注文して、それだけで人生の価値があるようだ。
ある日帰る頃には雨が激しくなり、西柵の街にはもう誰もいなくなり、湿った道に街灯が映り、演劇祭の風幡が舞っていた。昼のこの道にはたくさんの人がいて、夜が来ると、街は夢の中に入ったようで、急いでいた私も足を緩めた。夢のように、幻のように、烏鎮だ。
西柵の三番目のロマンは演劇に
烏鎮演劇祭『Wuzhen Theatre Festival(乌镇戏剧节)』に行ったことがあるか。それは世界で最もロマンチックな場所だと言える。天南海北の人はここに向かって歩いてきて、同じ夢のために同じ目標を持っている。彼らは踊って、大声で歌って、叫んで、彼らは火のようだ。廊橋、水台、広場など、至る所に舞台があり、彼らは自分の感情を解放し、彼らは盛んな生命力を振りまいている。
初日に烏鎮で、私は何気なく一番買いにくい「倒影」の切符を買った。『倒影』は環境式演出で、私と俳優の距離は一歩の距離にすぎないが、すべてが現実的ではない夢が実現されたような気がする。『世界旦夕の間』のように、俳優が舞台で虚無と現実について議論しているとき、空にある月を指して、今の月が本当かどうか知っているか。誰もが振り向いて、この瞬間私たちは同じ問題を考えていた。『赤と黒』を観た時、私は劇場の第一列に座って、俳優が舞台の下に来て、梅婷は私の目の前に立って、台詞がなくて、動作がないのに、私は彼女の目の中の涙をはっきり見て、その瞬間彼女はレナール夫人だった。
彼らには特別な魅力があり、私を酔わせ、忘れられない。もし1年に10日間の休暇があれば、私はずっと烏鎮演劇祭に滞在する。ここは最も純粋で、私が生活だけを楽しむことができる場所だからだ。
「起きて、遊んで、食べて、演劇を見て、ぼんやりして、コーヒーを飲んで、食べて、演劇を見て、夜食を食べて、酒を飲んで、おしゃべりして、二日酔いで、寝て、夢を見て」これは私の憧れの生活で、これは烏鎮だ。
寄稿者:ハルコの旅記録