チベットのラサの曲水県、ラサ川が雅魯蔵布江に合流した場所には、「俊巴」という村があり、青蔵高原で、魚を捕って生計を立ててきた唯一の村落である。チベット語では、「俊巴」は「漁獲者」を意味する。一方、チベット族の人々が信仰のため魚を食べないようになった背景には、漁村として存在する俊巴が、探訪に行くような考えを起こさせる。
Δ俊巴村落
川や山に囲まれて、神話の裏にある歴史
俊巴村はラサから60キロ離れており、ラサ川とヤ雅魯蔵布江の交差地帯に位置しており、川が多いだけでなく、山もある。しかし、これは簡単な山や水ではなく、世界で最も標高の高い川であり、周りは標高3600メートルから5000メートル以上の山である。漁村として、俊巴村はチベット高原で特殊に見える。チベット族の人々はみな魚を釣らず、魚を食べない。俊巴に伝わる物語は、俊巴人が「なぜ魚を釣って生計を立てるのか」に根拠を見つけたと言える。その中には「魚災伝説」と「仙女伝説」の二つの神話がある。
01 魚災伝説
伝説の中で、俊巴村の川の位置はとても不思議で、ここの魚は成長が速くて、その後、水域の中にはもう多くの魚が収容できなくて、そこでこれらの魚は翼を生んで空に飛んで、太陽と月を遮って、陸地の動物は太陽が照らせないため死亡した。神様はこのことに気づき、ここの守護者に翼の生えた魚を退治するため俊巴人を連れて行くよう命じた。9夜9日戦って、やっと勝利したので、魚を食べてお酒を飲んでお祝いした。神の承認を得たので、俊巴村人は魚を捕ったり、食べたりすることができる。
02 仙女伝説
ある蔵王が、俊巴村人が魚を釣っていることを知った後、軍隊を派遣して村落を包囲したと伝えられている。この時、村の若者が神様を祭って川のほとりで魚を捕ったが、美しい仙女が捕らえられた。仙女は彼を仙境で一緒に生活するように誘ったが、若者は誘いを断って、魚を捕って飢え死にする村人を救うことを堅持する。そこで仙女は彼に言って、「あなたの心は純潔で、神様を感動させた。蔵王に連れて行ってください。私は彼に俊巴村を見逃させる。」若者が仙女の言うとおりにしたので、蔵王は俊巴村民の代々の魚狩りを承諾した。
しかしこれらは伝説であり、実際には、俊巴村人が魚を狩ることを選んだのは環境によって決められた。ここは山と川に囲まれ、耕地が少なく、牧場が不足し、交通が不便で、魚を狩るのは実は千百年前の俊巴人の唯一の生き方だった。
魚を「大根」と呼び、かつての生活は楽ではなかった
旧社会では漁民の生活は貧しかったが、もし選択があれば、千百年前には魚を捕って生計を立てていなかったかもしれない。俊巴村人は魚を捕るのは自分で食べるだけでなく、販売もしている。食糧不足の時期には、チベット人の中には魚を買って食べる人もいる。特に青稞は成熟しておらず、冬に貯蔵された牛肉や羊肉が食べ終わったときには、魚はとても良い食べ物だ。俊巴村人はこの時ラサに魚を売りに行くが、「魚を売る」とは言わず、「大根を売る」と叫んでいる。その時、暗号を知っている住民が買いに来る。漁民として、彼らは時々牧区に行って魚を販売し、牧民と青稞、奶渣、塩などの生活に必要な物資を交換することもある。
Δ俊巴村で魚を調理する情景
チベットの解放は、俊巴村人に新しい生活をもたらした。村人たちは苦労から解放され、漁業などを発展させる権利を持ち、教育を受ける機会もあり、俊巴村人の生活は一日一日と豊かになっている。各家庭には伝統的な牛皮船だけでなく、自転車もあり、農繁期には作物を作り、農閑期には魚を捕り、主婦は座布団や伝統的な皮製品を編む。
Δ青稞の収穫風景
いろいろ苦労をした牛皮船 牦牛をまねった高原の舞
雅魯蔵布江では牛皮船が二千年以上使われており、牛皮船で川の中心部まで行くと、自分が落ち葉のようにかすかに感じられる。昔、俊巴人は魚を捕る時に牛皮船をを使っていた。
Δ俊巴の牛皮船に乗って川を渡る
牛皮船は漁獲の道具、乗り物だけでなく、俊巴村人の踊りの道具でもある。俊巴の牛皮船の舞「敦爾孜」は、鮮明な特色により、中国の無形文化遺産に登録された。研究によると、「敦爾孜」はチベットの牦牛舞を起源とし、リズム感に富み、踊っている人の背中の牛皮船は特に重く、10分ほど踊って、すでに汗だらけだった。しかし、踊っている人の動作は軽やかで優美で、新時代はすでに俊巴人の重荷をおろしているので、彼らは「敦爾孜」を踊って、もっと楽しくなるだろう。
—「方小白」より